地球人類植民地化計画の脱臼

たった数個の光子を探し、夜空にフォーカスする。蛍光灯の干渉波ノイズを通して、かすかな夜空の星を捕まえる。この時、明暗順応はシュレーディンガーの猫だろうか?

 

 

例えば、

 

相反するものが同時共存する社会 ≒ 抽象度が高い

 

もしくは、

 

≒自分が大事(流されない)

 

とすれば、

 

歴史伝統の重みある景観の整った街 ≒ 抽象度が低い

 

≒皆が大事(ルールが大事)

 

と言えるので、優劣は今つけないが、あきらかに生存戦略に違いが生じることが考えられる。

 

 

ところで、ここで食事傾向からの民族差スケール的なものを大雑把に夢想し、

 

エスキモー ⇔ 南方アジア

 

を参照すれば、90%を肉食に頼り、塩漬け中心のエスキモーと対照をなして、南方アジアであれば、フルーツや魚を食べている。つまり、砂糖食があり得て、海で泳ぐものである。

 

ここに、昔の日本人が、「甘い」と「旨い」が、同じ言葉であった事実を思えば、どちらかと言えば、エスキーモー側に、針が触れると見ても良いか?

 

もしそうであるのなら(もちろんそうでなくとも)、また別の例として、白人の食事を、代替フルーツとしての砂糖菓子と、噛み心地から見て代替肉(または代替脂肪)としてのパン、麺類、が非常に多く、また、南欧では唐辛子も食べること。この特徴などから換算して、大雑把にこのスケール上に変換した値をプロットできないか。

 

唐辛子は、毛細血管を拡げ、おそらくは一時的な寒さを凌ぐのに適していることなどからも、朝鮮半島などで好まれている。これは真に北方系かどうか分らないことを意味している可能性も考慮すべきだと言う妄言を以前からバイモードで得ている。あきらかにエスキモーのような完全な肉食では無い。

 

つまり、幾らかの白人種は北方系人種では無い?と言う仮説を立てられないか?

 

いわゆる寒い地域の動物は体格が大型化するので、ほとんどの白人種はそれに倣っているかのように大型だ。しかし、栄養のバラエティーからは、どうも、甘いもの、辛いもの、が多すぎる。これは分布が多岐に渡ると言うだけで、針がどちらに触れるかと言うような決め付けは出来ないのだろうか?

 

ここでまた、そのような地域の顔がどのような相貌かを参照してみると、二重目か、一重目か、また眼窩距離が近いか、離れているか?のような大まかな違いを見ることが出来ないだろうか?

 

眼球が大きく近ければ、もし顔が上下に短い場合、特に鼻の高さを度外視すると配置関係がダウン症比率的でもある。差別の根源はここにあって、実は縄文土偶の一部はこの比率であり、その縄文土偶の意味している可能性として、韓国のナマハゲ風の祭りと近いものを感じなくも無い。しかし、同じように暑い地域で砂糖をあまり食べないアフリカ人などどうか?などと参照していくと、一概にダウン症比率的とは決め付けられないことに気がつく。

 

これには性行為回数も関係する。知見的にもゲイは眼が近くなるからである。東南アジアなど、ニューハーフのメッカでもあるので、これはそう言う顔が良く写真に撮られている為かも知れない。ここ20年以上、ミートスパゲッティーを食べ、ポルノビデオを見ていることがある私は、あきらかに若い頃よりも更に眼が近くなり、ダウン症比率に近づいた気が時折する。これは表皮だけの問題ではあると思うけれど。実際の上顎骨での眼窩距離は、エスキモーなどと比べどれくらい隔たっているか保証は無い。おそらく元の自分からはそう変化していないでしょう。

 

ここで最初の「街の抽象度の考察」に戻れば、この時、「目的の、あり、なし」でそれぞれを試算してみれば、「抽象度の低い街における目的なし」は、もしかすると豊かな民主主義国では、経験的に暴飲暴食・惰眠を貪ってダウン症比率化の方向に成長ベクトルが働く可能性がある。

 

「抽象度が高い街で目的なし」では、おそらく自分を見失って流され、何もままらないないことは明らかであるから、ここでは詳しくしない。

 

また、「抽象度が高い街で目的があり」でも、騒乱を招いて、目的を果たせないケースが多々出てくるので、ここでストレス係数が問題となる。限界デジベルの音声送信があれば、「抽象度の高い街で目的あり」では、むしろ発狂してしまい、早くに社会から退散あるいは隔離されてしまう。社会から見れば、人員の旋回率は高いが個人の自由度は制限的である。

 

こうした社会では、慎みを求められるので、眼窩距離は広がる方向に成長ベクトルがかかるかも知れない。しかし、自分の判断がすべてを決する緊張とは裏腹に、性の自己決定権が制限されていて、行動範囲も娯楽も慎ましくなる。ここに社会との連帯を見るかどうかは個人の精神性にかかっていると思われる。

 

一方、「抽象度の低い街で目的なし」でも、性の自己決定権は確保されている。ここに矜持を見ると、数世代後には、ダウン症比率化が避けられない可能性はあるが、個人生活は比較的それなりに豊かであろう。

 

また、「抽象度が低い街で目的あり」では、もしや全体主義的で独裁的にならざるを得ないケースも考えられ、後に述べる銃社会の問題(イメージ)に繋がることが起こると思われる。むしろ当人が「抽象度の高い街」から出向して来て滞在するケースなど考えると、ストレス係数にボーナスがつくかつかないか?などと更に興味は尽きないが、これは仕事がはかどるなら、数世代後も眼窩距離は保たれているだろうか?

 

結局、数世代後の人間のことも考えなければ、判断できないケースが我々には多々存在しており、「性抑制淘汰」などはその例で、もし、何世代もその社会で家系が保たれる前提なら、これは性が娯楽になってはいけない人が居ることを意味する。

 

もし、性が娯楽であるのなら、一代ごとに種無しスイカを植えるようなカルト的宗教共産体制の社会になってしまう可能性も考慮すると、容易にユダヤ化は求められない公算になってしまう。

 

結局、生きることをただ求めるのでは、負け犬になっても、例え無様になっても、生きながらえることになる。

 

そうではなくて、勝つことを求めれば、世代後の為の「特攻」もあり得ると言う判断になるのだろう。

 

こう考えると、もしオーロラ中から過去の光子を捕まえることが出来れば、日本人の過去のすべてを否定することも無い可能性がタイムマシン(タイムテレビ)を通じて協議できる可能性が出てくる。

 

一般に「現実の抽象度の低い街」では、多言語・多文化化によって、商品バラエティーの豊かな民主主義社会などの場合など特に、「多様性」と言う意味での抽象度が非常に高い。これは複雑で発展した社会であり、まったく劣っていない。人類最先端の先進文明もそうである。しかし、それが銃社会であって、結局、弱者が一神教信者になるべく追い立てられていくような社会であれば、むしろダウン症比率的傾向への保持圧力/押し戻しがあるのかも知れない。言ってみれば、これも「2値化」圧力に相当し、「弁証法イジメ」「ゴルゴダの丘イジメ」がめっぽう掛かるクラスターが内部集団に存在することになる。

 

こうなると一般人にとって夜空の星にシュレーディンガーを重ね合わせる自由はどれくらいあるだろうか?