グレートバリアリーフの価値

かつて私が書いた中で最も重要な内容は、グルタミン酸神経全般に、2値化・3値化の原理のようなものがあるからこそ、聴覚のカクテル・パーティー効果が視覚芸術においてはジャクソン・ポロックのドリッピング風なことを起こすのだと言うこと。それが為に聴覚については立体音響で起こる「空ぶかしにぶつけ」が疲労を誘う最たるノイズ構成の一種で、ドーパミン過剰分泌説はこれの言い換えに過ぎず、診断自体が眉唾と言うものだった。つまり人によっては明かに外乱要因なのに、それを特定せず、内因的なものと決め付け、患者の人格を汚しているようなものだったのだ。

 

(あの昔聞いたスタークラブの”ALL OR NOTHING”は、調度、2値化だ。)

 

そして旧来の左右脳で分ける単純論者に対する批判を徹底的に無視して門外漢の為の自由な思考空間を確保し、もう一度、WW2敗戦時の漢字廃止論を洗い直す勢いを得たのだった。

 

また、私は、「そんな戯け知ったことか!」とばかりに、カオス脳理論をも徹底的に無視し、あえて化石化しつつあった「モジュール論」を取ることで、無理なく旧来の認知科学の成果物であるノイマン型コンピュータの類推を適用可能にして、素人でも無理なく話を進めることが出来たのだった。そして「鉱石ラジオ」の類推で仮にシリコン・ウェハーを「人造鉱石」と例えることが許されるのなら、人体こそはその半導体効果に特徴があり、神経系はまさに増幅効果のある精神エネルギーのアンプなのだと言う直感を得て、上記の音響兵器の可能性について話題に出来たことは、はっきり言って精神病患者の金字塔と言っても過言ではない。(もちろん、ネタばらし的な集団のリアルでの嫌がらせが、あまりに過ぎた為に、私が気がつく程見え透いていたのである:笑)

 

半導体と言えば、電子であり、これは原子を構成する素粒子の雲でもあり、量子効果の世界そのもの。ここからロジャー・ペンローズ的世界を受容するのは、まったくもって当然の流れだった。しかも、ロジャー・ペンローズの思考法の出発点には、その著作から知るところ、弁証法的なフレームがあるのを発見した時の喜びは、何物にも替え難いものだった。これこそは、かつての級友などの雑言「弁証法イジメ」なるものを本気で考えてみないとならないと確信した瞬間でもある。

 

そして弁証法と言えば、かつて興味半分で西田哲学を理解しようとメモに蓄積した思考のガーベージが、無理なく美術の思考と結びつくところ、「視円錐」「部分視」また理研の無料ペーパーから「知覚交替」のコンセプトを得て、それらを画面の深堀り方向に展開し、西田哲学の言う「主客分離」とは、「フォーカシング」や「ズーミング」のことではないか?これこそ、大脳アンプのボリュームをひねっている状態だ、と強く思う様になったのである。

 

ここからの進展は、あえて詳しく述べはしない。岸田秀説や自閉症と思しき学者の意見など頑迷な精神論との違いを明確に見出す為に、つまり、わかり易い統合失調症患者の特徴を抽出するために・・・しかし、本当は、2値化・3値化の原理で、統合失調症の緊張状態の絵が自分の中で完全解明されてしまったが為に、つまり、自分が患者であってもまだ健常者の範疇であることを最大限アピールする為に・・・例えて言えば西鋭夫のように単純至極明快な論法を探して、例の「両義性の王国」仮説へと至ったのであった。

 

これはもちろん、郡司ペギオ幸夫の著作が難しすぎたことが原因でもあったが、一体、どうしてこの方が岡崎乾二郎と言う美術家と一緒に出て来るのか?について考える方がよっぽどヒントになった。

 

また、例の学者のサイトによると、数学者・岡潔の考えでは、右脳は単なる機械室との意見だそうで、近日の民放の猿の映像からも、無意識とは、まず、交感神経系の働いている状況下では、自動処理だとかバッチ処理過程に近いものだと推理できる。

 

こうなると、副交感神経の優位な状況下での夢見などが、精神分析学の対象とした未知なる無意識の筆頭候補になって来る。無限の可能性を秘めた人生。それはフォーカスする限り、循環はエンドレス、と言う意味でもあった。夢見の技法こそは、そこにガラガラポン以上の何かを与えてくれることは間違いない。

 

量子力学、それはまた、量子光学の世界から探られる。そして素粒子はそこかしこに偏在している。自己の内と外に。量子エンタングルメントと言う概念で、私はヘーゲル以来の初歩的な疑問、外部環境と自己内部との境界について考えなくてはならなくなって、結局、周回遅れで現代に近づいた。

 

JAXAのサイトを見ていると2μmの電磁波をレーダに使っているのだから、何かニューロフォン的な40KHz以上の送信技術が当然にしてあるでしょう。問題は送信コードのほうかも知れないくらいの世界だ。本当にプライバシー的な内側の世界はこの社会に存在しているのか?

 

前野隆司の言う「本当の自分」こそは、抽象思考の視座、「哲学する心」の在り処でもあって、イジメの対象なのか?「自分の殻にこもる」と言う時の「自分の殻」、女装したい人の女性の心の格納空間?エニグマの歌詞に書かれたシャーマンの言葉のような何か。つまり、『ミクロの決死圏』的な細胞宇宙の妄想をもたらすあれ。地表のウェハースを貫いて天空に上昇する地の底からの雷鳴がごとしジェラシーがもたらす理想主義のエネルギー。そうした輪廻思想的な入れ子宇宙は、そのものずばり神経系の階層を憎悪や嫉妬のエネルギーが更に循環を過度に推し進めることで「昇華」が起こっていると言う証拠のようなものである。これこそ、精神エネルギー・アンプの最大増幅だ。のびしろが無ければ、もう、分解能が上がって複雑化するしか無い苦悩。

 

これには確かに、内と外の心理機制が幾分かは働いている。と思っているのだが、違っているだろうか?いや、土と火、水と風の原理だろうか(錯乱)?

 

テレビで見るグレート・バリアリーフの価値は、以前、変わらないように見える。そこに住む人々も。もちろん。しかし、漢字。お前は別だ。

 

美術系の学生の世界には、根性がないものは石膏デッサンが出来ないし、精神病患者は、引けた空間が描けない、いや、教えてやらなければ、すぐ、図ばっかりになってイジケル、と言う差別がある。その典型例が、様々な障害者アートのうちの幾らかに現れていると思っている。石膏デッサンなどは、さも20~30年くらいの蓄積がある立派なもの、と予備校講師などはすぐ言うが、本当は、「背景や回り込みをあまり意識しないで描いて良いルール」を課す事で「面の見方」を追及するクラブである。私も図ばっかりになったが、時々、描ける風な時があったので、ようやく気がついたけど、統合失調症の絵なんてまったくもって眉唾である。こんな作業でこけてる奴は決まって図ばっかりの癖があるから、そこへ来て、いきなり難しい色の絵を見せたら、真似し切れなくてアボリジニみたいな点々ばかり描いたりして更に図ばっかりになるだけの話なのである。

 

馬鹿馬鹿しくてやってらんない。

 

まぁ、草間弥生の作品もハッとする綺麗な点々の絵を前に見ましたが、そう言う路線もねぇ。すべての統合失調症患者の絵の特徴でもないんだよねぇ。なんか申しわけないんだけどさ。

 

どこかのクリニックの副院長は、「あれも前衛!と言う評価だそうだ、ワハハハ!」だって。どんだけ舐めてんの~もし。